勝連漁業協同組合かつれんぎょぎょうきょうどうくみあい/平敷屋漁港へしきやぎょこう

 勝連漁協かつれんぎょきょうのある平敷屋へしきやは、沖縄県の西、太平洋に突き出た与勝半島の先端に位置し、周りを美しい海に囲まれており、高台から展望できる島々は、津堅島つけんじま浜比嘉島はまひがしま浮原島うきばるじまがあります。
 勝連漁協の漁業区域である中城湾なかぐすくわんでは、沿岸漁業を中心として、タイ類、ハタ類、アジ類、タコなど数多くの魚介類が水揚げされています。
 近年は、沖縄県の主要な水産物であるもずくの養殖漁業が大きな進展をみせており、沖縄県内でのもずく生産量においても、勝連地域はもずくの一大産地として知られるようになりました。また、平敷屋漁港の整備拡充や生産基盤整備にも力を入れ、漁業近代化と生産の拡大に向け努めています。


勝連城跡かつれんじょうあと

 勝連城跡は、12〜13世紀ごろに築かれた勝連城かつれんぐすくの城跡で高さ100mの台地に建ち、城跡から見下ろす眺望は、金武湾・中城湾を一望できる絶景の景勝地になっています。
 勝連城跡は、2000年12月に「琉球王国のグスク及び関連遺産郡」のひとつとして世界遺産に登録されました。
 勝連城かつれんぐすくの最後の城主・阿麻和利あまわりは、東アジアを中心とした海外交易を盛んに行なって勢力を拡大した有力な按司あじで、琉球統一後も琉球王府から唯一王権を脅かす存在と目されていました。
                                          ※
按司=12世紀に各地域にあらわれた支配者のこと

 首里王府は、阿麻和利を抑えるために中城城に護佐丸ごさまるを配置したり、琉球王・尚泰久しょうたいきゅうの娘で絶世の美女と言われた百度ももと踏揚ふみあがりを嫁がせるなどの策を行ないましたが、阿麻和利の野望は果てることなく、最大のライバルである中城城の護佐丸を倒した後、首里城を攻めたが大敗し、王府軍に滅ぼされたとされています。


海中道路かいちゅうどうろ

 勝連半島から平安座島へんざしまを結ぶ全長約5kmの道路が「海中道路」です。海の上を一直線に走る美しい道路で、平安座島、宮城島みやぎしま伊計島いけいじまへ渡る道路です。海上の浅瀬を埋め立てた堤防と風光明媚なポイントで「海上を走る滑走路」とも呼ばれ、ドライブコースとして有名です。
 夏場は、海中道路の南側の海では多くの海水浴客やウインドサーフィンを楽しむ人で賑わいます。
 海中道路の中間地点には、公園と300台収容の駐車場を組み合わせた「ロードパーク」と「海の駅あやはし館」があります。
 「海の駅あやはし館」では、地元でとれた野菜や魚介類、お土産などを販売する店舗やレストランもあり、2階には、勝連半島を中心とした海運の歴史を展示した海の文化資料館があり山原船や、貿易や運搬に利用されていたマーラン船の模型をみることができます。


浜比嘉島はまひがしま

 浜比嘉島は、周囲7kmの起伏に富んだ島です。島でははま比嘉ひがの二つの集落があり、島の北側が比嘉区(比嘉集落、兼久かねく集落)で第一次産業の農業と漁業が主体になっています。
 島の風景は、赤瓦屋根の家並みや石垣が続き昔ながらの佇まいを残す中、半農半漁の生活が営まれています。
 1997年に平安座島との間に県内では3番目の長さの浜比嘉大橋が開通し、本島から多くに人々が車で足を運ぶようになりました。
 浜比嘉島は、神々の島ともいわれ、琉球開びゃくの神・アマミチュー(アマミキヨ)が住んでいたと伝えられ、集落には多数の拝所や御嶽(ウタキ)があります。


津堅島つけんじま

 津堅島は、勝連半島カンナ崎の南東4kmに浮かぶ周囲7kmの平坦な島です。
 津堅島へ渡るときは、平敷屋漁港から高速船で約15分、フェリーで30分ほどで着きます。津堅島は、ニンジンの産地としても有名で、島の中央はニンジン畑が広がっており「キャロットアイランド」との愛称で知られています。
 島の周囲では、セナハ浜、アギ浜、ギガ浜、ヤジリ浜、トマイ浜など白い砂浜が多く、島を取り囲む形でリーフが続き、豊かな海の自然が残っています。
 島での伝統芸能では、五穀豊穣や豊漁を願って演じる「津堅つけん潮巻棒すうまちぼう」があり、大海原や漁師の生きざまを表現した勇壮な踊りがあります。


平敷屋へしきやエイサー

 エイサーとは祖霊を供養する盆踊りで、地謡じうてー(三線弾き)、太鼓打ちちーくちり手踊りじーぬー(男役・女役に分かれる)、中わき(手踊りやサービス係)、ハントー(酒ガメ担ぎ)に分かれて踊ります。
勝連漁協がある平敷屋区のエイサーは、25歳以下の青年団員で構成し、あがり西いりの二組に分かれ、旧暦の7月15日・16日に行なわれます。
 起源は定かではありませんが、1903年(明治36年)頃までは、平敷屋独自の素朴なものであったといわれています。
 現在の平敷屋エイサーの演技は、1904年(明治37年)県内で好評だった名護エイサーを取り入れ、当時の青年会長(兼堅助志氏)が名護に出向いて習い、会員に教わったのが始まりで、それをもとに独自の型を確立しました。
 白と黒で統一された衣装(紺地)を身にまとい、念仏形式で踊る平敷屋エイサーは、素朴な踊りの中でも、内から湧き出る迫力、太鼓(パーランク)のバチさばき、腰の降ろし具合、足の運び方など隊列の美しさが見事に調和し、群舞する演技の奥深さは伝統芸能の重みを感じさせる見事なエイサーです。


ハーリー

 ハーリーとは、今から約500年前の琉球王朝時代に、中国から伝わった爬竜船はりゅうせん競漕がそのルーツと言われ、沖縄では毎年、旧暦の5月4日になると各地の漁港で盛んに行なわれる漁民の航海安全と豊漁を祈願する伝統の祭りです。
 平敷屋漁港でも、毎年、ハーリーの時期になると港内400メートルのコースを沖縄独特のサバニを漕ぎ、速さを競います。
 平敷屋のハーリー大会も近年、学校や職場で構成した一般チームも多数参加するようになり地域も一体となった大きな祭りとなっており、子供からオジ−オバー(祖父母)まで老若男女問わず、指笛や太鼓や鐘を打ち鳴らして応援する様子は、見る者を楽しませてくれます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


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